エンド|ガッタパーチャの溶解やマスターコーンのディップに使うクロロホルムを、実際の診療1日(2症例)で使いながら、診療室の空気と術者・助手の呼吸域の濃度を測り、2名の健康診断を前後で確認した職業衛生調査(McDonald & Vire 1992・Journal of Endodontics)
クロロホルムは再根管治療のガッタパーチャ除去や、マスターコーンを軟化させるディップ法でおなじみの溶剤です。ところが1976年、米国食品医薬品局(FDA)が医薬品・化粧品への配合を禁止し、「歯科でも使ってはいけないのでは」という混乱が広がりました。文献にも「FDAの禁止を考えれば、この溶剤の使用は正当化できない」という記述が現れます。そこで米国陸軍歯科部隊の2人の歯科医師が、実際の診療1日(8時間)で2症例——再根管治療のガッタパーチャ除去と、ディップしたマスターコーンによる側方加圧充填——を行い、診療室の空気と、術者・助手の呼吸域のクロロホルム濃度を産業衛生の方法で測りました。条件は各処置でダッペンディッシュに6滴、ラバーダム防湿下、グローブ・マスク・保護眼鏡着用。結果、室内の空気は5.5時間の採取で0.57ppm未満、呼吸域は150分間で0.88ppm未満=8時間平均に換算して0.275ppm未満。論文が判定に使った許容濃度(8時間平均2ppm)も、OSHAの指針として引く値(10時間までの勤務日・週40時間の時間加重平均10ppm)も大きく下回りました。術者と助手の健診——処置前は血液・心電図・尿・肺機能・胸部X線、処置後5時間以内は血液検査のみ、1年後は健診(項目の記載なし)——はいずれも正常範囲でした。ただしこれは2名・1日・少量使用という条件での測定です。
①結論:少量・ラバーダム下なら、呼吸域の濃度は基準の数分の一未満だった
再根管治療でガッタパーチャを溶かすとき。マスターコーンをディップして適合させるとき。クロロホルムの匂いがユニットに漂うと、「これ、術者やアシスタントが毎日吸って大丈夫?」と気になる方は多いと思います。
結論を先に言います。この研究が実際の診療1日で測ったところ、術者・助手の呼吸域のクロロホルム濃度は8時間平均に換算して0.275ppm未満。論文が判定に使った許容濃度(8時間平均2ppm)を大きく下回りました。術者と助手の健康診断も、処置前・処置後・1年後のいずれも正常範囲でした。
ただし前提があります。各処置で使ったのはダッペンディッシュに6滴、全処置ラバーダム防湿下、測ったのは術者と助手の2名・1日・2症例です。この条件をセットで持ち帰ってください。
②なぜ「使ってはいけない」と思われていたのか
きっかけは1976年の米国FDAの禁止です。対象は医薬品と化粧品へのクロロホルム配合でした。ところがこれが「歯科でも禁止された」「危険だと証明された」と受け取られ、文献にも、ADAの『Accepted Dental Therapeutics』からの除外を指して「FDAの禁止を考えれば、この溶剤の使用は正当化できない」という記述が現れます。代替溶剤を探す研究まで行われていました。
一方で、クロロホルム蒸気そのものに毒性があるのは事実です。論文が引く米国の職業衛生指針によれば、
・1,000ppm(単回):めまい・吐き気、後から倦怠感・頭痛
・80〜240ppm(長時間):倦怠感・消化器症状・思考の鈍り
・20〜70ppm:より軽い症状
中枢神経を抑制し、肝臓と腎臓に毒性がある。このため作業環境の基準が定められている。
つまり問いは「毒かどうか」ではなく、「歯内療法の普通の使い方で、術者が吸う量はどのくらいか」です。この論文は、そこを実際の診療で測りにいきました。
③今回の一手:実際の診療1日で、術者の口元の空気を測る
・使用量:大瓶からスポイト付きキャップの50mLの小瓶に小分けしておき、各処置でダッペンディッシュに6滴
・気化しうる時間:ガッタパーチャ除去で約15分(1mLシリンジで全量を歯に運び、細いファイルで溶かしながら穿通)、ディップで約5分(コーン先端2〜3mmを1〜2秒浸す操作を数回)
・防護:全処置ラバーダム防湿下、術者・助手はグローブ・マスク・保護眼鏡
測定は産業衛生の標準的な方法です。オープンベイの多ユニット診療室の治療ユニットに据え置きの空気採取器を2台置いて診療時間中に稼働させ、さらに術者と助手の体に採取器を付けて呼吸域の空気を集めました。活性炭の吸着管で捕まえ、ガスクロマトグラフィーで定量します(OSHAが推奨する方法)。最も濃度が高くなりそうな時間帯には15分間の天井値サンプルも取っています。
あわせて術者と助手は、処置前に血算・血液生化学・心電図・尿検査・肺機能検査・胸部X線を受け、処置後5時間以内に血液検査(血算・血液生化学)のみ、1年後にもう一度健診を受けました(1年後の検査項目は記載なし)。
④結果:実測値は基準値の棒の足元にしか届かない
室内の空気は5.5時間の採取で0.57ppm未満。術者・助手の呼吸域は150分間で0.88ppm未満で、これを8時間平均に換算すると0.275ppm未満になります。論文が判定に使った許容濃度2ppm(8時間平均)と比べると、呼吸域はその7分の1にも届きません(2÷0.275から筆者が計算)。
健康診断は処置前・処置後・1年後のいずれも正常範囲(処置後は血液検査のみ)。肝臓・肺・腎臓の障害や機能低下は見つかりませんでした。著者らは「空気中の濃度は許容濃度を十分に下回っており、健康被害はほぼ排除される」と結んでいます。
⑤なぜここまで低かったのか(筆者の読み)
論文は理由を分析しておらず、量や防護を変えた比較もしていません。そのうえで方法の記載を並べると、1処置あたり6滴という少量を、必要な分だけ小瓶から出し、空気に触れる時間は15分と5分。しかもラバーダムで術野が口腔から隔てられている。大瓶を開けっ放しにする、ダッペンディッシュにたっぷり注ぐ、といった使い方とは別物です。
この数字は「この使い方をしたときの値」であって、クロロホルムという薬剤がどう使っても安全という意味ではありません。
⑥法律と発がん性の話は、1992年の米国の整理として読む
論文の後半は規制の整理です。著者らが米国歯科医師会(ADA)の治療薬評議会と法務部に問い合わせたところ、ADAにはクロロホルム使用に関する方針声明がないこと、そして「FDAは製品を規制できるが、手技は規制できない。歯科医師がクロロホルムでガッタパーチャを軟化させることをやめさせる権限はない」という回答を得ています。
また米国疾病予防管理センター(CDC)、国立歯科研究所、ADAの図書館に問い合わせても、クロロホルムへの曝露で歯科医師に疾病や死亡が生じたことを示すデータは1つもなかった。発がん性についても、当時の国際がん研究機関(IARC)の評価として「ヒトでの発がん性の証拠は不十分」が引かれています。
いずれも1992年時点の米国の状況です(限界は⑧にまとめます)。この論文の値打ちは、法解釈よりも「普通の使い方で、術者は実際にどれだけ吸っているのか」を実測した点にあります。
⑦明日の臨床へ
以下は「この研究で使われた条件」です。量や防護を変えた比較は行われていないので、効いた理由までは言えません。
・空気に触れる時間を短く。気化しうる時間は再治療で約15分、ディップで約5分だった。
・ラバーダムとグローブ・マスク・保護眼鏡。測定はこの防護をすべて整えた状態で行われた。
・量の多い使い方はこのデータの外。
「怖いから一切使わない」か「気にせず使う」かの二択ではなく、量と時間を絞ったこの条件では、術者の曝露はここまで低く収まっていた——それが、この論文が現場に渡してくれる判断材料です。
⑧ここだけ、冷静に補助線
今日のひとこと
著者らの結論:注意深く管理して使えば、クロロホルムは歯科診療で有用な補助手段になりうる。今回の条件(1処置6滴・ラバーダム下・2症例/日)では、術者・助手の呼吸域は8時間平均0.275ppm未満で、判定に使った許容濃度2ppmを大きく下回り、2名の健診(処置前は全項目、処置後は血液検査のみ、1年後は項目の記載なし)も正常範囲でした。あわせて著者らは、FDAの禁止は医薬品・化粧品への配合が対象だと整理し、米国歯科医師会(ADA)からは「FDAは製品を規制できるが、手技は規制できない」という回答を得たと紹介しています。筆者の読みでは、持ち帰るべきは「クロロホルムは安全」という一般論ではなく、「少量を小分けにして、短時間で使い切る」この条件では、空気中の濃度がここまで低く収まっていたという具体像です(量や防護を変えた比較は、論文では行われていません)。量を増やす使い方(クロロパーチャ法など)や、換気の悪い個室での連続使用は、この測定の外にあります。


