エンド|歯髄診断・無痛性歯髄炎・後ろ向き記録調査
「痛くないなら、もう少し様子を見ましょう」。その判断は、どこまで安全でしょうか。ミシガン大学が12年分の診療録をさかのぼり、歯髄壊死+慢性根尖性歯周炎まで進んだ上顎前歯497本を数えたところ、38.83%(193本)には、そもそも痛みの記録がありませんでした。痛みが無いことは、歯髄が無事であることを意味しない——短いのに、診断の土台を揺らす一本です。
①「痛くないから、まだ大丈夫」——その前提を疑う
う蝕が深い。冷たいものにも反応が鈍い。でも患者さんは「痛くないです」と言う。だから今日は経過観察にする——外来でよくある流れです。ここには「痛みが無い=歯髄はまだ大丈夫」という暗黙の前提が置かれています。
その前提を、ミシガン大学の2人が正面から検算しました。タイトルはそのまま「歯髄炎は痛いのか?(Is pulpitis painful?)」。壊死まで到達した歯を後ろ向きに集めて、そのうち何本に「痛かった」という記録が残っているかを数える、という設計です。
②「痛みの既往」だけは当てになる、はずだった
温度診も電気診も、歯髄の形態学的な変化とは正確には一致しない——これはSeltzerら(1963a)以来くり返し確認されてきたことです。そのSeltzerらの研究で、臨床所見のうち唯一、歯髄の病理と有意に相関したのが「自発痛の既往」でした。同時に彼らは、歯は痛みを伴わずに壊死へ進みうるとも結論しています。この「痛みのない炎症」という概念に painless pulpitis(無痛性歯髄炎)という名前を付けたのが Hasler & Mitchell(1970)だ、と原著は書きます。
ただし、その頻度の報告は安定していませんでした。原著の序論によれば、根尖透過像がありながら痛みの既往が無い歯は26〜60%と報告に幅がある。多根歯が混じっていたのが一因で、1本の歯の中でも根管ごとに炎症の段階が違い、解釈が難しくなります。そこで著者らは、条件を思い切って絞りました。
③12年分のカルテを、単根の上顎前歯だけに絞った
対象は、ミシガン大学歯学部の大学院エンド外来で1989〜2000年に保管された診療録。1万件超をスクリーニングし、上顎の中切歯・側切歯・犬歯だけを候補にしています(原著はVertucci 1984を引いて、これらは100%が単根管だとしています)。この期間に治療された上顎前歯は2202本でした。
そこから、診断が「歯髄壊死+慢性根尖性歯周炎」の記録だけを採用。①患歯と対照歯の温度診・電気歯髄診(EPT)の記載があること、②X線で根尖透過像が確認でき、フィルム中央に歯があり根尖から3mmの歯槽骨が写り込みコントラストも良好であること、③痛みの既往(現在と過去の温度痛、そして自発痛)が十分に記録されていること——この3点を採用の条件にしました。そのうえで痛みの有無は、「自発痛」「自発痛の既往」「冷刺激への過敏」といった語がカルテに逐語で残っている場合だけ「痛みあり」と数え、残っていなければ「痛みの記録なし」に分類する、という判定規則で仕分けています。
逆に、他の診断(正常歯髄・不可逆性歯髄炎・既根管治療・外科処置)、記録の不備、根尖透過像を示さない歯、複数の罹患歯、未完成歯、外傷歯は除外。歯科以外の理由でアスピリンやNSAIDsを長期服用している患者、抗うつ薬などの向精神薬を服用している患者も外しています。
④結果:38.83%に、痛みの記録が無かった
基準を満たしたのは497件。平均年齢42.89歳(±17.46)。このうち痛みの記録が無かったのは193件=38.83%でした。抄録の言葉を借りれば「およそ40%の歯が、自発痛も、温度刺激による持続痛の既往も示さなかった」ことになります。
性別では男性41.35%、女性35.84%で有意差なし(34件は性別の記載が無く、性別の集計からは除外)。歯種でも中切歯35%(49/140)・側切歯41.7%(91/218)・犬歯38.1%(53/139)と差はありませんでした(いずれもP>0.05)。
差が出たのは年齢です。痛みの記録が無かった患者の平均年齢は46.83歳(±17.63)、痛みの記録があった患者は40.27歳(±16.87)(P<0.01)。ほぼ同数になるよう3群に分けると、33歳以下32.1%(54/168)、34〜52歳36.3%(61/168)、そして53歳以上では54.6%(72/132)。53歳以上と33歳以下のあいだにはP<0.01の差がつきました(中間群と上下の群のあいだには有意差なし)。
⑤14〜60%——報告はばらつくが、現象は消えない
著者らは自分たちの38.83%を、先行研究の報告と並べます。Seltzerら(1963b)の40%、Hasler & Mitchell(1970)の58%、Bender(2000)の60%とは近い値。一方でDummerら(1980)の14%とは大きく食い違い、多根歯を含むBarbakowら(1981)の26%とも開きがあります。
ひとつ補助線を引いておくと、58%という値の帰属は原著の中で揺れています——序論では抜去歯の組織学的検討としてSeltzerら(1963a)に、考察では Hasler & Mitchell(1970)に帰しています。下の図は考察の記述に従って並べました。
「これらの研究を詳細に比較するのは難しい。研究デザインの違いが大きすぎるからだ」と著者らは認めます。そのうえで、こう畳みかけます——それでも、利用できるすべてのデータが一致している点がひとつある。「無痛性歯髄炎」は語義矛盾ではない、と。数字は動く。現象は残る。
⑥なぜ歯髄は、静かに死ねるのか
歯髄は神経が密に走っているのだから、わずかな傷害や炎症でも鋭敏に感じ取れるはずだ——長くそう仮定されてきました。ところが近年示されてきたのは、歯髄神経の主要な役割が血流の制御(Tonder & Naess 1978)と神経原性炎症への関与(Byers 1992)にあるということだと、著者らは書きます。早期う蝕の段階ですでに歯髄には炎症が起きている(Brännström & Lind 1965)けれど、それはおそらく感覚としては検出されない。健全な歯髄が痛むことは稀で、病んだ歯髄の痛み方は予測がつかない——臨床の実感とも合います。
ただし原著は「無痛性歯髄炎を説明できるだけのデータは足りない」と明言したうえで、可能性を並べるにとどめます。①病原性の強い細菌で炎症が急速に広がり、歯髄が静かに死ぬ。②逆に、ゆっくり進む炎症に歯髄が適応し、メディエーターを侵害受容器が発火する水準の下に保つ。③中枢側で歯髄からの入力がゲートアウトされる。④歯髄内に存在するエンドルフィンやソマトスタチンといった局所の鎮痛メディエーター(Casasco 1990)が働く。⑤歯髄神経の主務が血管制御なのだとしたら、中枢へ送られる活動電位の数と同期が、収束・加重を起こすには足りない。
高齢者で痛みの記録が無い例が多かった理由についても、著者らは決めつけずに候補を挙げます。もとの歯髄病変の進行が緩やかで壊死に至るのが遅かったのかもしれない。高齢の歯髄は若い歯髄より神経支配が疎だという報告がある(Johnsen 1978・1983)。二次象牙質の肥厚と管周象牙質の硬化で、生活反応検査の偽陰性が増えるという報告もある(Peters 1994)。あるいは単純に、発症から受診までが長く、昔の痛みを覚えていないだけかもしれない。
⑦明日の臨床へ——「痛くない」を陰性所見にしない
第一に、問診の空欄を、歯髄が無事である証拠として使わない。この研究で「無痛」に分類された193本は、すでに歯髄が壊死し、根尖に透過像を作り、根管治療に回ってきた歯です。痛みが無いことは、経過観察を続ける根拠にはなりません。
第二に、高齢の患者ほど注意する。53歳以上では54.6%と半数を超えました。しかも同じ年齢層では、二次象牙質による生活反応検査の偽陰性も増えると著者らは指摘します。問診も検査も鈍りうる、二重の死角です。
第三に、拾う手段は問診ではなく、検査と画像の重ね合わせ。この193本は、根尖透過像と、対照歯を取った温度診・電気歯髄診によって捕まりました。痛みの訴えが無い歯を拾う入口は、問診の外にあるということです(ただし原著は患者の受診のきっかけを記していないので、定期的なX線がどれだけ寄与したかまでは、この論文からは分かりません)。
第四に、患者さんへの説明にも使えます。「痛くないのに、なぜ神経の治療が必要なのか」——ここに、この研究の数字は素直な答えになります。痛みは歯髄の状態を測る計器ではない、という話を、数字と一緒に渡せる。
後ろ向きの診療録調査なので、数えているのは「痛みが無かった」ではなく「痛みの記載が無かった」です。記録に残らなかった痛みは、無痛として数えられます。母集団も、大学院のエンド外来に来た単根の上顎前歯に限られ、除外基準も厳しく、2202本のうち残ったのは497本でした。先行研究の報告が14〜60%と幅を持つとおり、デザインの違いで数字は大きく動きます。なお原著は、本文では男性226名・女性237名と書きながら、Table 1では男性の分母を237・女性を226としており、両者が入れ替わっています(合計497と各割合は一致)。それでも、著者らの締めの一文は重い——この単純な調査は、歯髄の状態を診断するために現在使える手法の重大な限界を、もう一度示している。数字の精度より、この骨格のほうが臨床には効きます。
今日のひとこと
「痛くない」は「歯髄が無事」ではない。壊死+慢性根尖性歯周炎まで進んだ上顎前歯の38.83%(193/497)には、そもそも痛みの記録が無かった。53歳以上なら54.6%。問診の空欄を安心の材料にせず、対照歯を取った検査とX線で確かめにいく。
本記事は論文の要点を医療従事者向けにまとめた解説です。臨床判断は原著と最新のエビデンスをご確認ください。


